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【報道される】

『埼玉新聞』(2011.03.01)/アスベスト対策本腰を

県、功績の顕彰検討

【質問】
昨年、県が実施した再生砕石製造事業所への立ち入り調査で13事業所の保管場所からアスベスト含有建材が確認された。
もはや再生砕石にはどこでも同建材が混入しているという認識に立つべきだ。
国土交通省の資料によれば、アスベストを含む可能性のある民間建築物の年度別解体棟数は平成30年には約6万棟、
ピークの平成40年には約10万棟の解体が見込まれている。
これまで以上にこの問題に本腰を入れなければならない。
アスベスト混入の再生砕石撤去の指針などはあるか。

【星野環境部長】
これまでのアスベスト混入防止対策の徹底とともに、関係業界に働き掛け、解体現場や再生砕石製造事業所における
自主的な取り組みを図る管理マニュアルづくりを進めている。
アスベスト含有建材混入の再生砕石を撤去するかどうかの判断基準を示す指針は現在ない。
アスベストには環境基準が設定されていないため、その設定を国に要望しているところ。
現状では、現場周辺の大気環境中のアスベスト濃度の測定を行い、
その値が平均的な大気中の濃度と変わらないことを確認することで判断している。
今後とも国に対し明確な基準設定を強く要望していく。


『埼玉新聞』(2011.01)/県、功績の顕彰検討

県、功績の顕彰検討

県は28日、卒業式で広く歌われている「旅立ちの日に」を作詞した元秩父市立影森中学校校長の
故・小嶋登さん(秩父市出身)の功績を顕彰する考えがあることを明らかにした。
浅野目義英県議(民主党・無所属の会)の一般質問に対し、上田清司知事が答えた。

浅野目県議は「『旅立ちの日に』が、全国の中学校の音楽教科書に掲載されている」と強調。
「県内、全国の中学生がこの歌を学んでいる。卒業式で一番歌われている。
秩父市は『ふるさと文化賞』を贈り、政府も陛下の名で『従六位・瑞宝双光章』を贈ることを決めた。
県や県教委に、顕彰する動きがないのは残念」と述べた。

上田清司知事は「どういう形で顕彰したらいいか。しっかり検討した上で、しかるべき顕彰なり表彰なりをしたいと思っている」と答えた。
「旅立ちの日に」は20年前、同中学校で誕生した。
同校で音楽教諭を務めていた高橋(旧姓坂本)浩美さんから
「3年間一緒に頑張った卒業生に世界に一つしかない歌を贈りたい。歌詞をつくってほしい」と依頼されたのがきっかけ。
後輩たちに歌い継がれ、全国に広がった。
小嶋さんと高橋さんは2008年、埼玉新聞社制定の埼玉文化賞(社会文化部門)を受賞している。
小嶋さんは今年1月20日、急性心筋梗塞のため、80歳で亡くなった。


『埼玉新聞』(2006.11.01)/現職と新人、4人の争い

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ともに二期目を目指す自民・荒川岩雄(六七)と無所属・村上昭夫(六三)の現職二人に、
民主・浅野目義英(四八)、共産・伊藤岳(四六)の新人二人が挑む。

浅野目の動きが活発で台風の目になりそう。

前回のトップの荒川はまだ目立った動きこそないが、
今後、複数のさいたま市議と連動しながら保守票を中心に票化固めを図る。
村上は民主の推薦を得る意向もあったが、無所属にとどまった。

前回は民主を含め非自民票の多くを取り込んだだけに、浅野目が出馬すれば激戦が予想される。

浅野目は上尾市議を四期十六年、議長も経験した。
秘書を務めた武正公一衆議院議員(民主、埼玉1区)は浦和区で強く、武正票の取り込みが鍵。
前回次点だった伊藤は二〇〇三年、〇五年の衆院選にも出馬、票の上積みを目指す。


『毎日新聞』(2000.02.02)/どう打開する 合併協議4市1町本番インタビュー

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「4市一町政令市の圏域が最も適した都市像。上尾は都市圏の一翼を担うべきだ」と合併・政令市問題に積極的だ。
「浦和、与野に何も発言してこなかったのはリーダーとして失格」と現職を痛烈に批判する。

大学時代に全国弁論大会で2位に入賞するほど雄弁な理論家。
子供のころから地方の政治家になるのが夢で、学生時代に新自由クラブへ入党した。
25歳で全国最年少市議として上尾市議に初当選。さらに4期目で全国最年少の市議会議長も務めた。

市議時代、在日外国人の指紋押捺問題や放置自転車の海外リサイクル活動に取り組む一方、議会運営の改革にも貢献した。

前回の衆議院で自民党から候補者の打診を受けながらも、
後に厚生省汚職事件で逮捕された落下傘候補に公認をさらわれ、悔しい思いもした。

出馬の動機を急増した借金財政の再建を第一に掲げ、
「新世紀直前に古い政治や組織、団体を一掃し、政治に変化を」と、「上尾再生」を訴える。


『朝日新聞』(2000.02.01)/上尾市長候補者の横顔

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合併協議を進めている浦和、大宮、与野三市と、上尾市、伊奈町を「すでに都市融合している」とみる。

「一刻も早く市境を取り払い、四市一町で合併することが必要だ」

二十五歳で市議に初当選し、合併問題に長くかかわってきた。
それだけ、この四年間に市長を務めた新井弘治氏への評価は厳しい。
三市が先行合併の協議を始め、上尾が合併できるかどうかという点については含みが残る。

「市長として四市一町による合併を模索すべきだった。浦和や与野に対し、上尾の意向を何も発信していない。
 今年度は、合併のための事業経費がゼロだった」と指摘する。

財政再建も公約の一つ。一般会計の市債残高は昨年度末、約六百億円。四年前の約二倍だ。
「市長は『前任者が始めた事業の借金』と説明するが、自身も借金を新たに重ね、対策をとらなかった」とみる。


『産経新聞』(2000.01)/上尾市長選・候補者の訴え

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「新世紀直前だから、古い政治勢力を一掃し、選挙自体を変えなければいけない」と意気込む。

昭和三十三年、東京生まれ。昭和四十年に上尾に移り住んだ。上尾高校を卒業後、法政大に進んだ。
そのころから政治に興味を示し、昭和五十八年、上尾市議に全国最年少の二十五歳で初当選。
市議四期目には市議会議長に就任。昨年の市議選を回避して、市長選への挑戦となった。

「今の市政は、市民一人に約五十万円の借金を抱えさせている。
 一刻も早く、この財政危機を再生させたい」と現市政を批判する。

政令市問題では、
「今の社会は市域感覚は捨てるべきだ。浦和、大宮、与野の三市合併に乗り遅れないために、
 四市一町政令市のワク内にきちっと入れることが市民生活に最も適している都市像」と公約。

妻と一男一女の四人家族。好きな言葉は「奇蹟」。


『埼玉新聞』(2000.01.14)/上尾市長選立候補者の横顔

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前回、保守を二分する激しい戦いの末、現職を破った新井弘治市長(六三)は昨年九月議会で出馬表明。
これに対し元市議会議長の浅野目義英氏(四一)が十一月に出馬を表明した。

新井市長は現在まで自民党県連、上尾市医師会、JA上尾支部をはじめ地元経済界、
文化団体など九百五十を超える団体の推薦を取り付け万全の態勢を敷く。

浅野目氏は「団体、企業に頼る選挙形態を変えたい」と二、三十代を中心とした「次世代市長の会」を立ち上げ、
同組織を中心に駅頭立ち、チラシ配布、数人規模の座談会を精力的に行っている。
このほか共産党が候補者擁立に向け、人選作業を進めている。

今回の選挙戦は昨年六月、三市(浦和、大宮、与野)が合併推進協議会で
「新市設立後、上尾、伊奈の意向を確認のうえ二年以内を目標に政令市を実現する」
との内容で合意したことから、上尾市の意向を占う意味で注目されている。

新井市長はこれまで政令市参加への市政が消極的との指摘もされていたが、
それに対し十二月議会で遺憾の意を表明。「今後は四市一町政令市実現に向け積極的に発言していく」と答弁。

一方、浅野目氏は
「新井市政の四年間、政令市問題は何も進んでいない」と批判を強めるなど、四市一町政令市実現の旗色を鮮明にしている。

同問題に反対の共産がまだ具体的に候補者を決めていないこともあり、
政令市問題は注目されているにもかかわらず争点になりづらい状況となっている。


『埼玉新聞』(1999.10)/2000年首長選展望

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□なぜ、四市一町同時でなければならないのですか
先行合併すれば三市の圏域に人、モノ、情報が集中するとの危惧がある。
上尾には一部上場の日産ディーゼル工業の本社や上場企業の支店も多い。
これらの本支店が雪崩をうって三市に移転するのではないか。
そうなれば上尾は経済的にも、政治的にも街づくりが衰退する。
合併特例法の住民発議も全国でいち早く取り組んだ。
いま、上尾は盛り上がっている。この熱意を放棄できない。
上尾市議会は時代を的確にとらえ情勢判断する。
新しい時代をつくり上げることは議会の使命だ。

□合併は相手がある話。熱望しても浦和市民の上尾との合併希望は五・四%しかありません
県民の意識は南行性(東京への中央指向)。北方に対しては薄いから気にはしていない。
そもそも都市はその街の風土と伝統に基づいたアイデンティティーの確立を目指して運営している。
だから本来的に合併希望は生まれてこないし、合併を指向する街づくりはあり得ない。
しかし、生活活動圏域は単体では立ち行かないという事実がある。
ここから合併という話になるが、いかに共同の生活圏域にするかが課題だ。
そうするには、そこに閉じこもっていては限界があり、風穴が空けられない。
親近感は多分に個々人のイメージの問題で上尾は大宮にはあっても浦和には地勢的につながりがないのだから当然薄い。

□その意識をどう乗り越えますか
顔がなく味もない街をこれ以上つくっていいのか、ということだ。
県外の話だが、バッハホールだの一度も使われない美術館だのが各所に建つ。
新聞はやゆするが、これを埼玉は九十二(市町村)ヵ所でやっている。
顔のある街づくりへの挑戦が必要だ。
京都、広島、仙台などには顔があるが、浦和と大宮では顔がない。
二十年近いYOU And Iの歴史がある四市一町が理にかなっている。

□懸命に市民に訴えていますが、市長が参加していませんね
約八十団体で構成する上尾市合併・政令市推進会議で市民へのビラ配布をしている。
市長は参加していないが、市議会三十一人中、推進協議会の二十五人は一枚岩だ。
執行部をチェックするのが議会の役割。地方公共団体の最高の意思決定は議会で行われる。
執行と乖離(かいり)はないようにするが、市長とニュアンスの違いがあることは事実だ。

□昨年の五、六月ごろ浦和との非公式の場で二段階で上尾を担保してもらえるなら、と話されていますが
一考に値すると話した。しかし、非公式でもあるし当時と情勢が変わった。
マスコミ報道などで四市一町同時の機運が盛り上がってきている。
自主的要因があったということだ。幕末に黒船が来た時に世論は開国には向かわなかった。
しかし、受け入れる土壌があったのとおなじだ。
浦和は二段階を主張するが、二段階なら無理に入れてもらわなくていい。
浦和の市民意識で一刀両断にされるのは不本意だ。
一つひとつ積み重ね重大な時代への挑戦をしてほしい。


『朝日新聞』(1996.12.02)/汚染厚生官僚 権益確保 政治も一役

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「茶谷って、だれだ」「薬害エイズで評判の悪い厚生省の官僚では、若い人の票が集まらん」

衆院埼玉六区の公認候補をめぐる自民党上尾支部の話し合いは、
厳しい雰囲気で始まった。七月下旬のことだ。

のちに特別養護老人ホーム建設をめぐる収賄容疑で逮捕される厚生省の茶谷滋元課長補佐(三九)と、
浅野目義英・上尾市議会議長(三八)。名乗りをあげた二人を対象にした調整はこの会合から本格化した。
「知名度を考えれば有利」。浅野目氏はそう読んだが、展開は違った。

相談にいった福永信彦氏ら地元の自民党国会議員らからは一様に、
「六区の票の半分は上尾市だ。市長の支援を取り付けて来い」と説かれた。
小選挙区制で狭くなった分、地元の首長が重みを増す。
しかし、新井弘治市長は浅野目氏に、「選挙をやる体力があるのか」とそっけなかった。

新井市長は実は、有力県議を通じて自民党国会議員らに、
「意中の人物」として茶谷容疑者の名前を伝えていた。
上尾市には茶谷容疑者への収賄容疑で逮捕された
小山博史容疑者(五一)のグループの複合福祉施設が完成間近になっていた。

2週間で公認調整
「茶谷さんが埼玉県の課長に出向していたころ、市長が関係している福祉施設の認可で骨を折ってくれた。
 『いい人だ』と市長は言っている」そんな説明を県議から聞いた、

ある国会議員は「市長が世話になっているなら強い。厚生省関係の団体の支援も得られる」と思った。

岡光序治厚生省事務次官(当時)に確かめると、「よろしくお願いします」という答えが返ってきた。
調整劇は二週間で幕が下りる。八月上旬、公認は茶谷氏に決まった。
十月の選挙本番では、厚生省に関係が深い医師会、薬剤師会の動きがめざましかったといわれる。


『夕刊フジ』(1996.11)/厚生省大汚職 橋本政権と茶谷

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自らの“秘蔵っ子”として埼玉に茶谷容疑者を送り込んだ岡光氏の影響力をうかがわせる内容だが、
岡光氏自身の名がひんぱんに登場するのは、選挙の前哨戦。自民党の公認を取り付ける戦いだった。

激しく党の公認を争ったのは「日本一若い市議会議長」として知られる
浅野目義英・上尾市議会議長(三八)と、茶谷容疑者だ。

浅野目氏は、自民党の福永信彦代議士の後ろ盾を得、二十五歳で上尾市議に初当選。
三十八歳の若さで議長を務め、地元での知名度は茶谷容疑者をはるかにしのいでいた。

党公認候補は上尾支部で決めることになっていたが、調整は難航。
「浅野目は知っているが、茶谷って誰だ」の声も市議の間から出て紛糾した。

水面下での公認一本化工作も進まず、今年七月には、上尾市内の市議宅で茶谷容疑者と浅野目氏が会い、
直接対決するシーンもあった。その場にいた市議はそのときの模様をこう話す。

「会議は夕方五時から六時間に及びました。『絶対にあんたを応援することはない』と
 浅野目氏側が突っぱねたのに対し、茶谷容疑者は二、三言話しただけ。
 印象的だったのは『私はハメられたんですね』とボソッといったことでした」

茶谷容疑者は、平成四年四月から昨年三月まで埼玉県高齢者福祉課長。
その時期、小山容疑者の社会福祉法人が運営する特別養護老人ホームには補助金三十億円以上が支給された。

うち上尾市内の特養ホーム分は十億円以上。
上尾市は「茶谷容疑者が自分にとって有利な所と考えても不思議はない場所」(関係者)のはずだった。
加えて自民厚生族に通じる岡光氏の顔、補助金で太った小山容疑者の金があれば、すべてが順調に進むはずだった。
「それが選挙区にきてみると知名度抜群の若者(浅野目氏)がいて思うようにいかない。
 それが『ハメられた』という一言に表れたのではないか」と市議の一人はいう。

思うようにいかない選挙区の動きに慌てたのは岡光氏も同じ。
七月中には、茶谷容疑者と、その選対会計責任者、県議らが厚生省に岡光氏を直接訪ね、
公認決定にまつわるゴタゴタを報告させられたという。

結局、支部では最後まで結論が出せず、党県連の裁定で八月六日、茶谷容疑者を公認候補に決定。
茶谷容疑者は同月、厚生省を退職して選挙に臨んだ。

落選は、公認争いが尾を引き地元が一本化できなかったためという。
茶谷、小山両容疑者、そして岡光氏の凋落はここから始まった。
いや、関係者によれば警視庁の内定はすでに一年前から始まっていたというから、
茶谷容疑者の「ハメられた」は逮捕に至る今の事態までを予測してのものだったかもしれない。


『さいたまグラフ』(1996.06)/ここに人あり 第35代上尾市議会議長

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「私に与えていただいた使命を一時も忘れることなく、上尾市の未来のため、
 心を熱くしながら、全国最年少議長の名に恥じない仕事を、成し遂げていきたい」と、議長就任に当たり決意を語る。

「小学生の時にジョン・F・ケネディ大統領や明治の代議士田中正造のことを知り、
 自分も政治家になりたい」との決意が二五歳で上尾市議会議員として結実。

地元の上尾高校から法政大学社会学部を卒業。
自由な校風として知られる法政大学時代から新自由クラブで活動し、
卒業後は桶川市の小学校教諭を経て、被選挙権を得て初めての上尾市議選に挑戦。

選挙につきものの「地盤、看板、カバン」の何もなかったが、
上尾高校時代の仲間などが応援し、若者の共感を呼び見事に当選。

以来、四回連続し、平成八年一月九日臨時市議会で全国最年少の議長に就任した。
その間、平成四年から総務常任委員会委員長、六年から議会運営委員会委員長なども経験しており、
最年少といえども経験は豊富である。

上尾市長も新井氏が就任し、市政の方向付けもこれからであるが、
当面の課題は、四市一町の合併、政令指定都市問題であり、議長としてのリーダーシップをどう発揮するか注目される。

「大宮市との交流を行ってきたがさらに浦和、与野両市との議会とも話しあっていきたい」と、
合併問題に積極的な態度を示す。三七歳の若い力での政治改革と新時代の上尾の街づくりに期待がかかる。


『東京新聞』(1996.01.23)/若さ生かし個性的な市を

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二十五歳で上尾市議に初当選して依頼、四回連続当選させていただき、今月から議長に就任いたしました。
三十七歳の議長は県内の自治体では最年少で、たぶん全国でも最も若い議長だろうと聞いていますが、
これからもその若さを生かして個性的で元気な上尾市をつくるため行動し続けたい、と思っています。

初めて政治家というものを意識したのは、上尾市立尾山台小学校六年の時、
国語の授業で明治の代議士田中正造のことを学んだ時でした。

足尾銅山の鉱毒が川を汚染し、数十の村を荒廃させた「足尾鉱毒事件」で、
農民の先頭に立って惨状を訴え続けた田中正造。
彼の生き方は、人のために働くことの大切さを教えてくれました。
そして「私も政治家になろう」と決意したのです。

大学時代から新自由クラブで活動し、卒業後、桶川市の小学校教諭となりましたが、
一年後の昭和五十八年三月に辞職。その年十二月、被選挙権を得て初めての上尾市議選に立候補しました。

「地盤、看板(肩書き)、カバン(資金)」の何もありませんでしたが、
若い仲間が集まって、まるで文化祭か体育祭のように元気に選挙を盛り上げてくれました。
そんな仲間のおかげで当選することができたのです。

県内最年少市議となってからは、年齢が離れた他の議員との感覚にギャップに失望したこともありましたが、
積極的に一般質問に立って改革を訴え、その実現に努めてきました。質問項目もこれまでに百を越えました。

昭和六十年には在日外国人指紋押捺制度廃止に向け
「拒否者がでても告発しない」旨の市長見解を、全国の自治体でも四番目に引き出しました。

また、「坂や通りの愛称保全」のための愛称標記ポールの設置や
放置自転車のアフリカやアジアの国への寄贈なども実現させることができました。

議会の当面の最重要課題は、四市一町による合併・政令指定都市問題です。
私自身は随分前から、ハクオリティー社会を築くためには、これを推進すべきだと考えてきました。

何かを作ろうと思っても上尾市だけでは財源に限界があり、負債は膨らむばかりです。
しかも、隣の大宮、与野、浦和の三市が合併しようという時に、
自らその傍らにひっそりと咲く花への道を選ぶべきではないと思います。

合併問題はことしが正念場。昨年は大宮市との交流を本格化させましたが、
ことしは浦和、与野両市の議会とも話し合いの場を持ち、実現に向けて精一杯頑張るつもりです。(上尾市在住)


『毎日新聞』(1991.09.23)/市責任明確化求め付帯決議

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上尾市が、デパート館の売却に伴って経営危機に陥っている
同市の第三セクター「上尾都市開発」(社長、荒井松司市長)に無利子の融資をすることに対し、
同市議会総務委員会(浅野目義英委員長)は四日間にわたる審議の末に、
最終日の二十二日、市の責任を明らかにすることなどを求める異例の決議を付けて可決。本会議も可決した。

市側は当初、
「上尾都市開発の借入金及び利子に相当する額から
 保証金収支及び減価賠償費に相当する額を差し引いた額」の融資案を示した。

しかし、委員の間からは「額を明示しておかないと、融資が際限なくふくらむ恐れがある」などの指摘があった。
このため市は二十二日「(同社の)借入金二十二億七千八百七十万円及びその利子に相当する額」を融資の基準にする訂正案を提示した。

これは可決されたが、デパート館を議会などへ何の相談もなく売却し、
市民に約二十二億円の負担を掛けたことは重大な過失であり、責任を明らかになどを求める五項目を決議した。


『読売新聞』(1989.09.20)/部長級ら46人が出頭北上尾駅贈収賄

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上尾市議会九月定例会一般質問初日の十八日、先月初め、
市の現職課長が逮捕される事態に発展したJR「北上尾駅」建設をめぐる贈収賄事件が取り上げられた。

その中で県警の求めに応じて出頭した市職員の人数や、
押収された書類の内容など、市役所に対する操作の具体的な内容が明らかにされた。

浅野目義英議員(新政ク)の質問に答えたもので、答弁によると、
出頭に応じた職員は部長級六人、次長級三人、課長級十一人を含めて計四十六人で、出頭回数は延べ二百十四回に上った。

また書類は「北上尾駅イチコー関連事業買収一覧表」「北上尾駅建設成同盟会補助金」など
直接容疑事実に関連すると思われるもののほか、贈収賄のイチコー工業が入札の際に裏工作をしたとうわさされた
「総合福祉センター工事請負契約書綴」など計七十三点、百三十四冊が押収された。

事件発覚後の市の対応について、田仲治樹総務部長は、今月一日に各所属長(課長級)に通達を出したほか、
八日に「市網紀粛正委員会」(委員長・小池甫助役)設置し、汚職を生んだ下人と再発防止策を検討していると説明。

さらに浅野目議員が、広く市民に役所のあり方を知らせるという意味からも、
事件について広報誌などを通じて市民へ直接、説明することを求めたのに対して、田仲部長は
「事件の全容は市民に知らせるべきだが、まだ操作が続行中なので、
 操作の推移を見守りながら、ある段階で市民への周知の方法を考えたい」と答え、広報誌で釈明する方針を明らかにした。


『埼玉新聞』(1989.09.19)/試行的に臨時採用の方針聴覚障害者雇用で

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上尾市は、聴覚障害者の「特別枠採用」について十八日、試行的に臨時採用(半年間)の方向をとり、
経過をみたうえで年次的に本採用するかどうか検討していく方針を打ち出した。

同日の市議会一般質問で、浅野目義英議員(新政クラブ)が市の考えをただしたのに対し、田仲治樹総務部長が答えた。

同市の場合、昭和五十一年身体障害者雇用促進法の制定に伴い、現在までに法定雇用率は達成されている。
しかし、中身は肢体障害者が中心で聴障者、視障者、車いすの人などは一人も入っていないのが実情。

このため、同市身体障害者福祉会(矢島敬一会長)から先月二十日付けで、市当局に職種を限定せず、
一般事務職として障害者の「特別枠採用」を即時実施してほしい- という上申書がだされていた。

田仲総務部長は
「聴覚障害者といっても、どういう人がくるのかはっきりしない段階では検討しにくい。
 市としては初めてのケースなので、採用後の経過を見た方がよいと判断。年度内に試行的に臨時採用したい」と話している。

なお、「別枠」採用については、所沢、坂戸、大宮市などが実施しているという。


『日本経済新聞』(1987.01.01)/突っ走る新人類 不思議の国動かす

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「小学生の時にジョン・F・ケネディや田中正造の話を教科書で読んで政治家になりたいと思ったんです」

それから十年余り。大学を卒業して被選挙権ができた二十五歳の年に浅野目さんは上尾市議選に出馬。
周囲の大人たちから猛反対されたが、地場、看板(肩書き)、カバン(資金)がモノをいう選挙戦で
「地元上尾高校出身をほとんど唯一の頼りに、千八百九十四票獲得して当選した。

着慣れない三つぞろいの背広に身を包んで出席した市議会は浅野目さんにとって一種の不思議の国だった。

冠婚葬祭への出席要請がやたらに多い。
議会活動の基本である一般質問に決して立とうとしない議員、
高齢すぎて一人で起立できない議員、年に八回もある「行政視察」・・・・・。

といってこうした大人たちのやり方をいきなりすべて否定しようというわけではない。

「私が議員をやっている意味は、彼らとは感性や価値観が違う人間がいるということを気づかせることだと思うんです」

浅野目さんが議会で取り上げた、古い坂や道の名称の復活が来年、市政三十周年の記念事業として実現する。
役所側はプロだから手ごわいが、熱意をもって説得すれば、動かせるというのが実感だ。

「まじめにやればわりと面白いクリエイティブな仕事だと思いますよ。なんでみんなもっと出てこないのかなあ」(あさのめ・よしひで)


『毎日新聞』(1986.05.30)/見つめる選挙 若者はいま

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国鉄上尾駅前の居酒屋。衆参同日選が確実になった二十四日夜、
十四畳の座敷には「勉強会」に来た若者でいっぱいだった。

高校生、大学生、公務員・・・出席者は十七歳から二十七歳までの若者。
上座に座った年配の講師の話を神妙に聞いていたが、懇親会でビールやジュースが出ると、とたんに元気が出た。出
席者の一人は「サークルみたいな軽い雰囲気でしょ」と笑った。

「土曜会」という。上尾市議の浅野目義英さん(二七)が若者の政治参加を目指し、二ヶ月に一度開く。

この夜、参加した桶川市の明大三年、重盛智さん(二〇)は
「政治に楽しく参加するには、無理をしないこと。全生活をかける必要はない」と淡々としている。

浅野目さんは五十八年十二月、上尾市議選に立候補、千八百九十四票を獲得し三十六人中二十五位で初当選した。
両親が離婚し、十八歳の時から一人きり。「小さな幸せ、身近なものを守るため上尾の議員になる」と心に誓った。
団地の一室で塾を開き、生計を立てながら大学へ通学、二十五歳になるとすぐ立候補した。

上尾高時代の友人が頼りの選挙。準備に入った時に十人が集まり、それぞれが自分の友人に支持を訴えた。
こんな運動が、若者の共感を呼んだ。「私にもビラを配らせて」「ポスターを張りたい」。
同窓生や近所の学生が集まり、お祭りのような運動になった。

投票日直前、支持者名簿は千四百人を数え、若者の名前が六割以上を占めた。
ダブル選挙を前に、二年半前の選挙の記憶がよみがえる。
和気藹々と運動する姿勢に、疑問を感じた人もいる。

「選挙の時だけ、浮かれて手伝うだけの人も多い」
浅野目さんと中学、高校時代からの親友で大宮市の公務員、大曽根亮さん(二七)は言う。
公務員の立場上、直接、選挙は手伝えなかったが、距離をおいて見ていた分、取りまく若者への目は厳しい。

楽しいから選挙に参加する人が多いのは、浅野目さん自身も認める。
これまでに集まった人の中で、まともに政策を尋ねたのは二人しかいない。
信頼されているのか、本当は政治に興味がないのか。
「わからないけど、どんな理由であれ参加するのが第一歩」と浅野目さん。

近づく同日選で、浅野目さんはある候補の選対本部に入る。
でも、自分の仲間に加わるよう呼びかけたりはしない。
若者の中には同調する人もいるが、別の候補を応援したり、全く選挙運動に参加しないなどさまざまだ。

明大生の重盛さんは「地元の埼玉五区に魅力はない」と、
東京・多摩地区の若い候補を応援に行くつもりだ。
「土曜会」で若者の議論は続く(24日、国鉄上尾駅前の居酒屋で)

◇若者たち◇
「社会活動には関心が薄く、現在の生活に満足している」。
県が六十年、二十歳以上の県民千五百人を対象にした世論調査でわかった二十歳代の若者の一面だ。
回答を各年代ごとに分析すると、「コミュニティー」という言葉を知っている二十歳代は、
全体の八〇・一%で三十~五十歳代の各年代と比べて最低。
社会活動に参加したことのある者も三一・四%で、三十歳代から六十歳以上まで全年代と比べても最低と、関心のなさが目立つ。
しかし、現在の生活への満足度は高く、一〇・九%が「十分満足」、五二・六%が「一応満足」と答えている。


『新自由』(1985.04)/浅野目市議の追及に成果

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上尾市市議会三月定例議会で新自由クラブの浅野目義英市議は、
三月十八日、在日外国人の指紋押捺拒否問題にふれ、

「日本で日本人と同様に暮らしながら、十六歳になるや
 指紋の押捺を強要される違和感と屈辱感は大変なものがあると考える。
 指紋押捺の義務づけにいたずらに固執するのではなく、人権の配慮からも廃止するのが時代の要請であり、
 理にかなった措置と考えるが、市の基本的な姿勢はどうか。
 市で押捺拒否者が出た場合の対応を明らかにして欲しい」と問い質した。

友光恒市長は
「国際的な日本となってきた立場で、同制度は時代に沿うだろうかと疑問に思う」と答弁し、

拒否者に対し安易な強制はせず、告発もしない、との姿勢を明らかにした。

同制度に関しては川崎・町田・奈良市が「告発せず」の見解を示しており
上尾市は全国で四番目、県下では初の姿勢であったが、市長につめ寄った浅野目市議の手腕ぶりが各方面から注目された。

浅野目市議は市長答弁を受け
「よいことをよい、悪いことを悪い。とする市長の政治的見解を評価したい」と述べ一般質問をしめくくった。


『毎日新聞』(1985.03.19)/外国人指紋押捺拒否県下の自治体で初上尾の「告発せず」方針

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外国人登録法に基づく外国人の指紋押捺(なつ)制度の問題で、
友光恒上尾市長は十八日、三月定例市議会の一般質問に答え、
県下の自治体として初めて押捺拒否者を告発しない方針を示したが、
この方針に基づき、外国人登録事務を扱う同市市民課は、今後押捺の制度、告発は避けることにしている。

質問は浅野目義英市議(新自由クラブ)が行ったもので
「今年は外国人登録の切り替えの年。
 指紋押捺は本来必要ないと思うが見解はどうか」と、同市長の基本姿勢をただした。

これに対し、同市長は
「国際化時代を迎えている中で、時代にそぐわない制度だ。押捺拒否者が出ても即告発でなく、
 国に法改正を求めていくのがスジだと思う」と、押捺拒否者を告発しない基本方針を明らかにした。

同市市民課は
「今後窓口では現行法を説明し、理解を求めていく。
 しかし押捺を拒否しても、安易な強制や告発はせず、慎重に対処していくことになる」といっている。

同市には今月一日現在で三百三十一人の外国人が住んでいるが、同課によると過去押捺を拒否した外国人はいない。


『埼玉新聞』(1985.03.19)/指紋押捺拒否 上尾市長も告発せず国に法改正要求へ 全国4番目、県内初

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上尾市の友光恒市長は、十八日の三月定例市議会で、
在日外国人の指紋押捺(おうなつ)拒否問題にふれ、

「あえて告発する必要はない。むしろ法律改正を国に対して要求すべきだ」との基本姿勢を明らかにした。

川崎市の伊藤三郎市長、町田市の大下勝正市長、奈良市の西田栄三市長の「告発せず」を支持したもので、
全国の自治体では四番目。県内では初めての表明として注目される。

友光市長は、新自由クラブの浅野目義英市議の一般質問に対する答弁の中で、市の基本姿勢として
「国際的な日本になってきた立場で、外国人登録の切り替え時に指紋をとって確認する制度は、
 今の時代に沿うだろうか。疑問に思う。私は反対である。あえて告発する必要はない。
 むしろ法律改正を国に対して要求するべきだと考える。十六歳になったらすべて指紋をとるという、
 こんなバカバカしい法律が生きていていいのか」と述べた。

市議会終了後、友光市長は
「窓口では、現行法を説明して理解を求めていくが、拒否者に対し安易な強制はしない。
 違反者が出ても告発はしない。国に法改正を迫っていく」と語った。

朝鮮総連県本部(康元周委員長)によると、県内の外国人登録者一万六千五百九十四人(昨年末現在)のうち、
韓国・朝鮮人は一万一千八百七十一人で、その大半を占めている。
今年が外国人登録法で定める登録証の大量切り替えの時期にあたることから、
このうち約半数の六千百四十三人が十月一日までに指紋押捺などの更新手続きをとる。
同日までに十六歳を迎え、初めて指紋押捺の義務が生じる高校生らは二百四十八人。

このため二月二十日には、県内に住む在日朝鮮人の中学生二人と高校生二人が、
畑知事に同制度の廃止について国に働きかけるよう九十五人分の反対署名を提出、
同知事は、国に対し廃止要請をしたい、と答えている。

なお、同問題については、川崎市長が二月二十三日、
町田市長と奈良市長が三月十三日にそれぞれ「違反者が出ても告発しない」ことを表明している。


【投書・投稿】

『朝日新聞』(2001.12.25)/シズエさんの命の尊さ学ぶ

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15年前、長男が780㌘で出生した。明日の命も知れない超未熟児だった。
ある雑誌に「どんなことがあっても生きて欲しい」と、涙をこらえながら随筆を書いた。

加藤シヅエさんから「読みました」とすぐにお手紙をいただいた。

「今世界に50億(当時)の人口が存在するそうです。
 しかし、それが尊い一つ一つ命ある人間として考えと結びつかないように思えます。
 尊い命を健やかにお育てください」と書かれてあった。

この真理の詰まったお手紙に、当時いったいどれくらい励まされたことだろうか。

産児調節運動は、同時にかけがえのない命を必死にはぐくむ運動であったことを教えてくれていた。
強い意志で、険しい道を幾多も切り開いてきた女性運動のパイオニアは、104歳で天界に旅立たれた。

手紙の内容を思い起こし、その偉業に熱い拍手を送りたい。
長男は来春、高校生になる。背丈は、私に至らんとしている。


『桜ん坊』<山形県人会>(1999.02)/板谷峠 母の命を一目見ん

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山形から上京していた歌人斉藤茂吉は、母の死を目前にし

『みちのくの 母の命を一目みん 一目みんとぞ ただに急げる』

と歌い山形に急ぎ帰っていった。

旧国鉄最大の難所板谷峠を戻ったに違いない。
崖の中を突き進むこの峠が、山形内陸地方と外界を結ぶ唯一の鉄路だ。
私はよくこの峠のことを考える。

厳しい傾斜で細く長く続く板谷峠から、
一体何人もの人が、どんな気持ちで都市へ出ていったのだろうかと。

岩から流れ出る清水のように、山形人は板谷峠から細く広がっていった。
雪深く貧しい地から様々な理由で故郷を後にしながら。

「調子のいいヤツは好かない。不利になろうが自ら決めたことは必ずやり抜く。
 妥協せずにコツコツ仕事をし生きていく」

山形人はこんは風に評される。当たり前のことだ。
横綱柏戸も、写真家土門拳も、教育者無着成恭も、作家井上ひさしも、歌手岸洋子も、
みんな壮絶な意思を持ち、都市へ出ていったのだ。

たった一人でこの厳しい崖の板谷峠から。


『上尾高校創立30周年記念誌』(1988.11)/上高生であったことの誇り

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受験番号は一六六番だった。私は上履きを忘れてしまい、
はだしで入試を受けるというとても恥ずかしい思いを体験した。

合格発表の日は、先に着いて待ち構えられていた友人から
「浅野目落ちてたよ」と言われ、表現し難いくらいに慌てた。
けれど、愕然としながら掲示板を見て一六六番をしっかり確認するやすぐに、
私は目茶苦茶彼のことを追いかけ回した。

ヒマヤラ杉が正門からきれいに列をつくり、鼠色の二つの校舎が平行に伸び、
やたら校庭のだだっ広い上高に、昭和四十九年四月私は入学した。
規則の少ないとても自由な雰囲気と評判の学校であった。

不意をついて思い出すことがある。
一夜漬けばかりで苦しみの連続だった中間、期末、旺文社テストのこと、
それらのテストが終わった後ナント三日間!も続いて挙行され県内でも名物だった球技大会のこと、
友人と授業をさぼり自転車で二人乗りをしながら緑一面の荒川の土手にでかけて寝転んでいたこと、
夜遅くまで天井を見つめながら聴いた深夜放送のこと、
予備校の夏期講習会ではつい眠ってばかりいたこと、校長批判のビラを校内中に貼ったこと、
北社夫の「幽霊」とドエトエフスキーの「貧しき人々」を何べんも読み返したこと、そして何度も涙を流してしまったこと、
通信添削をやる気になり郵便局に貯金をおろしに張り切って出かけていき
「お金おろして下さい」と言ったところ、相手の職員の態度がどうもおかしいので見回してみたらそこはNTTだったこと・・・・・。
心の中に潜んでいたはずの数限り無いそれらのことが、一つ一つゆっくりとよみがえってくることがある。

人はみな若い頃のことを顔が真っ赤になるくらい気恥ずかしい気分で振り返るものだ。
しかしまた、充分若く何よりも純粋で情熱があったあの頃のことを
うらやましくも懐かしく思い出すのではなかろうか。
三年間、私は上高で生活の大半を送った。誰もと同じ気恥ずかしく、情熱のあった時代であった。

上高時代、私自身がとても好きな一人の先生がいた。
この先生の話の中に今でも忘れることができなものがある。
授業中、いつも笑い話ばかりの先生が、静かに話してくださった
「権力者に迎合することは狡猾者のすることだ」という話だ。

私は感動で胸が高鳴り、体中の血液がぐるぐる回ったことを、覚えている。
知識の羅列だけでもなかったし、ストレスがたまっているということもなかった。
高潔にして理想主義を貫けという話を授業中よくしてくださった。
後年、私は大きな真理の詰まったこの話にどれだけ勇気づけられることが多かったことだろうか。

上高の良かったところは、
何かをチャレンジしやすいように、自由でのびのびとした環境づくりに学校が努力を傾けてくれていたという点であり、
また自分や相手の立場にこだわり続けることの無い大らかな、
そして既製品になることの無い大胆な人間になれと教えてくれる先生がいた点である。
これらのことが、私の無上の誇りである。


『世界と議会』<尾崎行雄記念財団>(1987.07)/小さな命

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早朝の清潔な風が吹いていた。

私と妻は、車で五分ばかりの産婦人科医院の前に立っていた。
ここにやって来るまでの車中、妻はずっと前かがみであった。
朝の五時、果たして出てきてくれるであろうかという不安があったが、
ブザーを押すと、看護婦はすぐにドアを開けてくれた。

「昨夜から腹痛が断続的に襲ってきます」と妻は苦しげに話した。
医師は「もう子宮口が開いてしまっており、産まれてしまう」と私に話した。

「大丈夫でしょうか」
「わからない、できるだけやってみます」

かつて、高校の時の教師や、親友の母親が、映画のスローモーションのように緩やかに、
私に話してくれた流産という言葉が、突然頭の中をぐるぐる回った。

まだ在胎二五週で、出生予定日より百日も早いわが子の誕生が近づいていた。
何もかもが混乱している頭の中で、極めて小さい子が生まれるという事実は冷徹に認識できた。
お願いだから、お願いだからと、私は心の中で唱え続けた。
鼻血が出る時のつんとした苦しみが口の奥に広がり、心音が高まり、胸が確実に苦しくなっていった。

県立小児医療センターから、救急車に保育器を載せ、二人のドクターが駆け付け待機してくれた。
慌しいなかの九月二十四日朝七時三分、たった一声だけ甲高い産声をあげ、
ドストエフスキーが「人生は苦痛であり人生は恐怖である」と言ったこの世にわが子は生まれてきた。
僅か七八〇gの男の子だった。

この子の運命と言うには余りに過酷すぎる小さい命を、
何とか生かそうと、スタッフみんなが全ての努力をしてくれた。
呼吸器をつけ、高酸素濃度の保育器の中に入れられて、
わが子はピーポーピーポーの電子音を街中に響かせる車に乗せられ、
あっと言う間に小児医療センターに運ばれていった。

大きな病院の中で、多分私は走っていた。
三階の未熟児新生児科集中治療室へは、なぜか迷うことなく着くことができた。
保育器に横たえられた私の子は呼吸を荒くし、苦しみを顔に刻み込んでいた。
「肺が未熟なので肺へ直接チューブで酸素を送っている。鼻からのチューブではミルクを送っている。
黄疸が強いので光線を当てている。このように小さく生まれてしまった赤ちゃんは、
多くの脳室内出血がみられるが調べていきたい」青年担当医はざっとこんなことを言った。

何故こんな風になってしまったのだろうなどと思う時には、
鉄路を跨ぐ陸橋の上から遠くを眺めたり、雑然とした夜の街を徘徊すれば、
大抵のカタが付いたが、今度は絶対難しいように思えた。

意思の強そうな担当医は、慎重に言葉を選択しつつ、
かつ噛み砕きながら私に子の症状を説明してくれた。
助かるのかと、それだけが大声で聞きたかったが、
「宜しくお願いします」としか私はいうことができなかった。

退院してきた妻と私は、毎日子供を見にいった。
「出生体重一五〇〇g未満を極小未熟児と言い、一〇〇〇g未満を超未熟児と言う。
肺や中枢神経系等各臓器の機能が極めて未熟なため、特に後者となるとその発育・発達の予後は満足できない」
これが二人の持つ知識であった。どの本屋の書棚から育児書を取り出しても、
殆ど助からないという表現がページを支配していた。

出生十一日目には六〇五gに迄減少してしまった。
足は大人の指の太さしかなく、頭は頭蓋骨そのままとなり、
相変わらず呼吸は苦しげであった。
保育器にへばりつき、その苦しみを代わってやりたいと何度思ったことであろうか。

「知人の産婦人科医は『将来の見込みもなく、自分の子なら私は助けない』と言っていました。
先生、一体望みはあるのでしょうか」私は口ごもりながら担当医に質問した。
彼は明瞭とした声で「その医者の考えは間違っています」と言った。
妻と私はその時、この医師の全人格と信念しか、既に信じていいものはないと思った。

四十三日目の十一月六日、やっと一〇〇〇gに到達した。
以後毎日約二〇gずつ増え、妻と私を喜ばせた。
体が僅かずつ大きくなるにつれ、肺も力をつけていった。
保育器の中の酸素濃度も徐々に下げられ、それはまた保育器から出ることの近いことも示していたが、
遂に十二月十六日、保育器から出ることができた。

十二月十一日に二〇〇〇gを超え、翌年一月七日に三〇〇〇gを超え、
二月四日には四〇〇〇gを超えるなど、猛スピードで体重が増加していった。
しかしその間も、医師の予知の通り確認された脳室内出血には、
腰椎穿刺が繰り返し施されて髄液が抜かれていたし、
網膜症には、光凝固・冷凍窒素手術が熱心に行われていた。
積極的な検査と治療は休むことなく続けられた。
その度に、子は苦悶をし、また大きく元気になっていった。

前の日は風が強く吹いた。

百五十三日目の二月二十三日、退院をした。
この日のやって来ることは夢のようだった。

卒業式のように看護婦や医師たちの笑顔に見送られ、病院に別れを告げた。
手際のよい地域医療システムの組織化のお陰で、また、有能で情熱ある人々のお陰で、
私の子は生をかろうじて手に入れることができたという感謝を、生涯忘れることはあるまいと思った。

体重七八〇g、身長三三cm、胸囲十八・七cm、鼻と口に細かいチューブを挿入され、
目隠しをされ、手・足・頭に点滴の針を刺され、虫の息の子を見つめた時、
これでもかというほどに胸が締めつけられたこと、
ひたすら祈っていたのは、目が見えてくれ、耳よ聞えてくれ、体よ動いてくれでなはく、
『生きてくれ、頑張ってくれ』であったことも思い起こしていた。

なかった命を得ることのできた子として、自らのために手段を選ばぬといった人には決してならぬ、
正義に充ちた献身的な人となるよう育てようと、妻と話しながら、代わり番こにわが子を抱いた。


『月刊新自由・クラブ解散特別号』(1986.08)/若い仲間とともに

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「やさしい世代」とか「しらけ世代」といわれ、
その政治的無関心を批判されることの多かった若者たちに、
新自由クラブは政治への関心を高めさせてくれた点について、画期的であった。

高度経済成長期に生まれたわが世代は、見せかけの繁栄の中で育ち、
常に価値観を与えられ、既成の枠組みのもとに、
おとなしい行動を余儀なくされることが多かった。

政治的理想主義実現への新自由クラブの果敢はチャレンジは、
わが世代を共鳴させ、新しい発言や行動を起させる大きな原動力になった。

事実、多摩市、上尾市の二十五歳の青年市議候補者に公認・推薦を与え、
当選に導いたのをはじめ、二十七歳の東京都議が誕生するなど、
この十年、若くてやる気に満ちた地方議員、活動家を生みだした。

また、各レベルでの選挙戦では、アクティブな動きを若者が中心になり展開したことも含めて、
新自由クラブがわが国の若い力による政治改革の一翼を担ってきたことは確かな事実である。

こういった生き生きとした動きが、党の解散という事態のもとで停滞し、
消滅していくのは残念なことである。

十年間の「壮大な実験」に対しては率直に称賛を贈るが、
信頼される政治実現のため、全国に散在する全ての党関係者の皆さまに、
これからも若者の政治参画の道筋を創造し続けて欲しいことを心から切望したい。


『地方自治職員研修』(1984.11)/「弁当くらい自分でつくれ」という意見も

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「共働きで給食がでないと手がかかる。といのうは口実である。

親なら寝ないでも、弁当をつくってやるべきではないか。
こういうお母さんのために、厳しい財政から中学校給食をやるというのであれば、
実施優先度は最低だ。私一人でも反対する。
中学一年生になったら自分の弁当ぐらい自分でつくれ、といいたい。

上尾市議会九月定例会での《市政に対する一般質問》では、中学校給食をめぐり、
「早く実施を」と迫る給食推進派議員と、「当分困難である」と言い切る市当局との応酬があり、
そのなかで友光恒上尾市長は厳しくこう答弁した。

「埼玉県内三十九市中、中学校給食がないのは、上尾市を含めて三市だけ。
 調査によれば当市の父母の七〇%、生徒の四九%、教師の50%が実施に賛成との結果が出ている。
 散在する他の様々な市民投票に比べ、かなりまとまった意思表示であるといえよう。
 中学校給食完全実施という市民の要求に対して、昭和四十七年に検討委員会が設置され同会では
 給食はセンター方式で実施する」との答申を出した。

さらに、昭和五十五年には議会に市民一二八三名からなる陳述書が出され、
議員全員の賛成をみたという経過がある。

「こういった一連の盛り上がりから十年以上。なぜ実施をしないのか。当分とはいつまでなのか」
といった質問が続くなか「当分とは当分であります」と答弁をし、
歯切れの悪いことの否めなさを印象づけた市当局であるが、
背景には、市長の強い信念があるとみる関係者が多い。

「親が子に弁当をつくる。もしくは子が自分でつくる。
 こういった教育の重要な一環をなぜ行政が肩代わりしなければならないのか」

この市長の信念が、市民要求とどうバランスをとっていくのか。今後も注目されるところである。


『朝日新聞』(1979.08.16)/おばあさんをもう泣かすな

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本誌の園山俊二氏の四コママンガ「ぺえすけ」に、僕はふっと笑わされ、はっと胸を突かれ涙を流した。

一コマ目。おばあさんが縁側でペエスケに「これが火消し道具」と、
柄の長いほうきのようなものをみせる。

二コマ目。「これが防空ずきん」とかぶってみせながら、
おばあさんは、戦争中の用具の説明を続ける。

三コマ目。「これが戦死した息子の」とおばあさんは、海軍少年兵の帽子をもってやってくる。

四コマ目。それをペエスケの頭にのせるや、おばあさんは泣き崩れるのである。
おじいさんがやってきていう。「だから、あのころの物は、ひっぱり出すなって言ったろうが」━。

いまは、ビルが立ち並んだし、車も多くなった。すべての面で、この国は大きく変容した。
けれど、あの戦争で、なによりも大切な多くの人を失った。
全国に何十万といるペエスケのおばあさんたちは、胸を痛くして、今年の夏を迎えたに違いない。
自衛隊員は十八万人にもなった。青森ナイキ基地、機雷敷設飛行隊など、
今年に入ってからの防衛庁の計画はすさまじい。

おばあさんが涙を流す大切だった人々の死は、果たしてムダだったのだろうか。
終戦三十四年目。ペエスケのおばあさんを、もう泣かせてはいけない。
せめて五コマ目では、帽子を取り出して「息子よ、この国は平和になったよ」━そういわせてみたい。


『読売新聞』(1972.09)/無情な花売り

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友達と書店からの帰り。前から風変わりな男の人が近づいてきた。

「恵まれない青少年のために、この花を買ってください」

「なるほど」と納得し、財布をだして「いくらですか」と聞くと「五百円です」。
一輪の花が、五百円とは。僕の心は驚きに満ちあふれた。
しかし、恵まれない青少年の苦しみは一人の学生として知っている。
少しでも協力しようと思い、驚きの心を隠して
「花はいりませんから、これをとっておいて下さい」と、五十円差し出した。

ところが返ってきた言葉は「それなら協力金として三百円出して下さい」。
僕の心はあっけにとられた。「なぜ五十円ではいけないのですか」と抵抗したがムダだった。
あの活動員は「チリも積もれば山となる」ことの本当の意味を知らなかったのだろう。

一人一人が一円ずつだしても五百人の善意が集まれば五百円になる。
愛ある福祉が叫ばれている中で、こんな無情な花売りが横行するとは。まったく哀しい出来事だった。


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