小さな命
浅野目義英(上尾市市会議員※当時)
早朝の清潔な風が吹いていた。
私と妻は、車で五分ばかりの産婦人科医院の前に立っていた。ここにやって来るまでの車中、妻はずっと前かがみであった。朝の五時、果たして出てきてくれるであろうかという不安があったが、ブザーを押すと、看護婦はすぐにドアを開けてくれた。「昨夜から腹痛が断続的に襲ってきます」と妻は苦しげに話した。医師は「もう子宮口が開いてしまっており、産まれてしまう」と私に話した。
「大丈夫でしょうか」
「わからない、できるだけやってみます」
かつて、高校の時の教師や、親友の母親が、映画のスローモーションのように緩やかに、私に話してくれた流産という言葉が、突然頭の中をぐるぐる回った。まだ在胎二五週で、出生予定日より百日も早いわが子の誕生が近づいていた。何もかもが混乱している頭の中で、極めて小さい子が生まれるという事実は冷徹に認識できた。お願いだから、お願いだからと、私は心の中で唱え続けた。鼻血が出る時のつんとした苦しみが口の奥に広がり、心音が高まり、胸が確実に苦しくなっていった。
県立小児医療センターから、救急車に保育器を載せ、二人のドクターが駆け付け待機してくれた。慌しいなかの九月二十四日朝七時三分、たった一声だけ甲高い産声をあげ、ドストエフスキーが「人生は苦痛であり人生は恐怖である」と言ったこの世にわが子は生まれてきた。僅か七八〇gの男の子だった。
この子の運命と言うには余りに過酷すぎる小さい命を、何とか生かそうと、スタッフみんなが全ての努力をしてくれた。呼吸器をつけ、高酸素濃度の保育器の中に入れられて、わが子はピーポーピーポーの電子音を街中に響かせる車に乗せられ、あっと言う間に小児医療センターに運ばれていった。
大きな病院の中で、多分私は走っていた。三階の未熟児新生児科集中治療室へは、なぜか迷うことなく着くことができた。保育器に横たえられた私の子は呼吸を荒くし、苦しみを顔に刻み込んでいた。「肺が未熟なので肺へ直接チューブで酸素を送っている。鼻からのチューブではミルクを送っている。黄疸が強いので光線を当てている。このように小さく生まれてしまった赤ちゃんは、多くの脳室内出血がみられるが調べていきたい」青年担当医はざっとこんなことを言った。
何故こんな風になってしまったのだろうなどと思う時には、鉄路を跨ぐ陸橋の上から遠くを眺めたり、雑然とした夜の街を徘徊すれば、大抵のカタが付いたが、今度は絶対難しいように思えた。意思の強そうな担当医は、慎重に言葉を選択しつつ、かつ噛み砕きながら私に子の症状を説明してくれた。助かるのかと、それだけが大声で聞きたかったが、「宜しくお願いします」としか私はいうことができなかった。
退院してきた妻と私は、毎日子供を見にいった。「出生体重一五〇〇g未満を極小未熟児と言い、一〇〇〇g未満を超未熟児と言う。肺や中枢神経系等各臓器の機能が極めて未熟なため、特に後者となるとその発育・発達の予後は満足できない」これが二人の持つ知識であった。どの本屋の書棚から育児書を取り出しても、殆ど助からないという表現がページを支配していた。
出生十一日目には六〇五gに迄減少してしまった。足は大人の指の太さしかなく、頭は頭蓋骨そのままとなり、相変わらず呼吸は苦しげであった。保育器にへばりつき、その苦しみを代わってやりたいと何度思ったことであろうか。「知人の産婦人科医は『将来の見込みもなく、自分の子なら私は助けない』と言っていました。先生、一体望みはあるのでしょうか」私は口ごもりながら担当医に質問した。彼は明瞭とした声で「その医者の考えは間違っています」と言った。
妻と私はその時、この医師の全人格と信念しか、既に信じていいものはないと思った。
四十三日目の十一月六日、やっと一〇〇〇gに到達した。以後毎日約二〇gずつ増え、妻と私を喜ばせた。体が僅かずつ大きくなるにつれ、肺も力をつけていった。保育器の中の酸素濃度も徐々に下げられ、それはまた保育器から出ることの近いことも示していたが、遂に十二月十六日、保育器から出ることができた。
十二月十一日に二〇〇〇gを超え、翌年一月七日に三〇〇〇gを超え、二月四日には四〇〇〇gを超えるなど、猛スピードで体重が増加していった。しかしその間も、医師の予知の通り確認された脳室内出血には、腰椎穿刺が繰り返し施されて髄液が抜かれていたし、網膜症には、光凝固・冷凍窒素手術が熱心に行われていた。積極的な検査と治療は休むことなく続けられた。その度に、子は苦悶をし、また大きく元気になっていった。
前の日は風が強く吹いた。
百五十三日目の二月二十三日、退院をした。この日のやって来ることは夢のようだった。卒業式のように看護婦や医師たちの笑顔に見送られ、病院に別れを告げた。
手際のよい地域医療システムの組織化のお陰で、また、有能で情熱ある人々のお陰で、私の子は生をかろうじて手に入れることができたという感謝を、生涯忘れることはあるまいと思った。
体重七八〇g、身長三三cm、胸囲十八・七cm、鼻と口に細かいチューブを挿入され、目隠しをされ、手・足・頭に点滴の針を刺され、虫の息の子を見つめた時、これでもかというほどに胸が締めつけられたこと、ひたすら祈っていたのは、目が見えてくれ、耳よ聞えてくれ、体よ動いてくれでなはく、『生きてくれ、頑張ってくれ』であったことも思い起こしていた。
なかった命を得ることのできた子として、自らのために手段を選ばぬといった人には決してならぬ、正義に充ちた献身的な人となるよう育てようと、妻と話しながら、代わり番こにわが子を抱いた。
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