昭和33(1958)年5月27日
東京都生まれ。父・浅野目文夫(山形県米沢市出身、非鉄金属メーカー研究員)母・馬場昌子(東京都八王子市出身、小学校教諭)の長男として出生。
テレビ100万台突破の年、しかし普及率10.4%。 厚生省の「栄養白書」によると4人に1人が栄養不足。 けれどもわが国社会全体に信じられない勢いがあった。 岩戸景気始まる。東京タワー完成。原辰徳、山口百恵と同い年。正に「ALWAYS 三丁目の夕日」のシーンにある温かく力強い、高度経済成長の胎動期に生まれた。
昭和34(1959)年1月 幼年時代
生後すぐに父の郷里の山形県米沢市へ移り、祖父母、伯父、伯母に慈愛深く育てられ幼年時代を送る。
※同市は、直江兼続、伊達政宗、上杉鷹山(治憲)らが居した豪雪地帯の城下町。
※事あるごとに「変わった名字」といわれる、この浅野目という名の総本家は山形県東根市長瀞に在する。代々義助という名を継いでいる。
昭和40(1965)年11月 転校
せっかく友だちができたのに、小学校2年生で上尾市原市団地に引っ越し。クラスメートがさよなら会を開いてくれ泣いてしまった。
抽選で団地に当たった父が、小躍りして喜んでいたのを憶えている。60年代建設された団地には、システムキッチン、水洗トイレなど当時の最新の設備があり、庶民の憧れの住宅だった。
上尾市立原市小2年へ転入学。団地転居世帯の児童急増で、離れた場所に急きょ建設された同市立尾山台小へ転校。緑の風が吹く畑や森の中を毎日30分歩いて通学していた。
原市団地から宮原駅までの約8km。街路樹の根本にひまわりの種をまき、鮮やかで見事なひまわりの列をつくり、友だちを驚かせる。
中学入試の準備のため北浦和の進学塾へ通う。県内の俊英たちが集まるこの塾でかなり勉強する。
昭和46(1971)年4月 中学生時代
中学入試に失敗。大宮市立桜木中へ越境入学。国鉄大宮工場を中心に発達したターミナル大宮駅の近くにある中学。人ごみの中わけも無く徘徊するようになり、ぐんと大人になる。
大雪の日、友人約10人と校舎の二階から雪つぶてを下校の生徒に投げつけた行為を教師にとがめられ、全員ビンタ。「お前は生徒会の役員だろう。」私だけ2発くらい、ぶっ飛ぶ。おっかない先生がいたことがなつかしい。
新聞切り抜きに拍車がかかる。新聞への投書が初めて掲載される。
昭和49(1974)年4月 高校時代
県立上尾高校入学。北杜夫、ドストエフスキーの文庫本読破。古文の青年教師浜野茂則先生(深沢七郎研究家、埼玉詩人会々長)が、よく授業中静かに話してくれた。「権力者に迎合することは狡猾者のすることだ」感動で胸が高鳴り、体中の血液がグルグル回った。
事情があり団地で一人暮らしが始まる。三木清、戸坂潤を読みふける。この二人にゆかりの法政を受験することを決心。
生徒会代議員会議長。またこのころ地方議員になることを決意し、クラスメートに宣言。
県立上尾高校卒。十分若く何よりも純粋で情熱があった時代。恋をし、友をつくり、書を読み、社会を見つめた三年間。
昭和52(1977)年4月 大学時代
法政大学社会学部応用経済学科(現・社会政策科学科)入学。弁論部入部。ここで10歳年上のよく弁論部に遊びに来るOB上田清司氏(現 埼玉県知事)と出会う。電車が通るとガタガタゆれる中野の飲み屋で3年生の時言われる。「浅野目、25の時に選挙があるぞ」
学生時代は、滋賀県甲賀郡土山町議会選挙を皮切りに、地方選挙・国政選挙の支援、ボランティアの毎日。学習教室・上尾自由塾設立。近所の子どもたちを集めて勉強を教える。
新自由クラブ入党。新自由クラブ青年協議会(ヤング新自由)全国連合副代表。法政大学卒業。
昭和56(1981)年4月 教員時代
桶川市立桶川北小奉職。いつも考えていた。
真実から目をそむけて、子らに本当のことが語れるか。
未来を信じないで、子らに新しい時代を語れるか。
理想をもたないで、子らに熱い夢抱けと語れるか。
堂々と生きないで、子らに誇りをもてと言えるか。
スクラムの外にいて、子らに仲良くしろと言えるか。
たたかいから逃げて、子らに勇気ふるえと言えるか。
低学年を担任。後ろ髪引かれたが、市議になる夢を実現させるために退職。
昭和58(1983)年12月 市議選挑戦、初当選
「25才だから応援する。29才なら応援しない」そんなことを言ってくれる人もいた。念願の立候補。新自由クラブ推薦候補として戦い、上尾市議会議員初当選。25歳全国最年少。地方政治家としてデビュー。当選祝賀会でのあいさつ「一級の市議になりたい」
当選直後昭和58(1983)年12月の第37回総選挙で上田清司事務所(埼玉5区)に入る。昭和61(1986)年6月の第38回総選挙では、上田清司選対本部事務所(埼玉5区)で事務局長。3回目の上田選挙の陣頭指揮をとる。
同年9月長男生まれる。780gで生誕。生死をさまよう我が子のことをエッセイ「小さな命」(『世界と議会』)に書く。それが加藤シズエさん(戦後第一回総選挙で当選した女性元国会議員)の目にとまり、お手紙をいただく。
昭和60(1985)年6月
姜尚中(カン・サンジュン)・東京大学社会情報研究所教授(在日コリアン初の東大教授)は、当時住んでいた上尾市で昭和60(1985)年6月外国人指紋押捺を拒否。この運動は一躍有名に。
これは浅野目が同年上尾市議会3月定例議会の一般質問で、「在日外国人が指紋の押捺を拒否しても警察権力に告発するな」、「時代の要請である指紋押捺制度を廃止せよ」との質問をしたのを受けての行動。ちなみに昭和27(1952)年4月28日に外国人登録法が施行されると同時に導入された指紋押捺制度は、浅野目のこのような議会での活動や市民運動の広がりで、法施行48年後、浅野目の訴えから15年後の平成12(2000)年4月1日で全廃された。
日本経済新聞(1987/1/1)元旦特別号に「突っ走る新人類4人」の一人として登場。(バイオリニスト・千住真理子、劇作家・鴻上尚史等と共に掲載)
「歴史的に市民に愛されてきた通り、坂道の名を保全しろ」など45項目の本会議一般質問を果たし一期目を終える。市議会活動報告集『勇気があれば何でもできる』発刊。
昭和62(1987)年12月 2期当選
上尾市議会議員2期当選、29歳。公共施設整備特別委員長。社団法人上尾青年会議所入会。
「鉄くずになるだけの大量放置自転車援助物資として海外へ送れ」、「市役所自らが聴覚障害者採用し障害者雇用の風穴あけろ」など38項目の本会議での一般質問+委員長報告を果たし二期目を終える。
市議会活動報告集『いちばん元気!』発刊。
平成7(1995)年12月 4期当選、議長に
上尾市議会議員4期当選、37歳。第35代上尾市議会議長就任、37歳全国最年少。
議案が各委員会に付託されたら、委員会をすぐに開くべきと主張。一般質問を先に行うシステムを改めさせる。37年続いた本会議の流れを抜本的に変える。
衆議院議員候補者として浮上、厚生官僚と公認を争う。浅野目と自民党公認を争い立候補を果たした、厚生省年金局企画課長補佐・茶谷滋被告(当時41)は、新進党候補に敗れ落選した。その後有名な「厚生省汚職」の中心人物として収賄罪に問われた彼は、東京地裁から、懲役1年6ヶ月、執行猶予4年、追徴金1122万円(同2年、同1122万円)の有罪判決が言い渡された。
政令指定都市推進協議会長。埼玉県知事へ「声明」、「要望書」を提出。4市1町議員懇話会上尾市幹事。
▼ You And I 圏域の合併に向け
話し合いを続けた関係者<知事公邸>(40歳)

昭和55(1980)年7月、県長期構想で、浦和市、大宮市、与野市、上尾市、伊奈町の4市1町による「埼玉中枢都市首長会議」発足。
平成2(1990)年12月、埼玉経済同友会は畑知事へ『You And I 圏域の政令指定都市実現に向けての提言』を示す。この圏域(与野、大宮、浦和、上尾、伊奈)の新たな役割があり、合併と政令市化が必要とした。
知事は平成3(1991)年5月30日、「7~8年で合併してもらい」と発言。浅野目は、この圏域の市議として一番早くこのテーマで一般質問。一体感をもつ連帯から合併そして政令市へとこのエリアの進化を極めて熱心に訴え続けた。
平成12(2000)年2月 市長選へ挑む
「上尾再生計画」(6大公約)を掲げ、上尾市長選出馬。2万票近くとりながら次点敗退。政治的なほとんど全てを失う。政治浪人生活へ入る。
平成12(2000)年3月 予備校講師時代
過去約10年週1回程度コマをもっていた大宮駅西口前の予備校講師(政治経済、英文読解)に。熱心に授業。いつも言っていた。「今がんばらなくていつがんばるんだ!」参考書を2冊書き上げる。
平成15(2003)年6月武正公一秘書時代
政策担当秘書合格。衆議院議員武正公一(民主党・埼玉一区、外務委員会筆頭理事、県連幹事長)政策担当秘書。秘書仲間とともにスクラムを組み代議士の政治活動を徹底補佐。超人的な体力。政治を動かす執念。「この男なら日本を動かせる」と思う。民主党入党。民主党埼玉県連政治スクール(2期生)へ参加。
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